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ホステスと少年  2 綾乃、アフターをすっぽかす

2020/07/20

一一時を過ぎて、横田のチェックが入った。綾乃は会計された数字を確かめて、今月もノルマをクリアできたことに安堵した。
綾乃は、桜の花の扇子を元どおりに箱に収め、外国人のお客に手渡した。横田は、
「今夜も楽しかった。ありがとう」
と、礼儀正しく礼を述べた。外国人も満面の笑みを浮かべ、
「また会いましょう、また会いましょう」
と、若いホステスたちの世辞に応えた。
並木通りまで見送りに出た。横田の背中が見えなくなるまで手を振り、それから携帯を取り出すのももどかしく確かめてみるが、翔太のLINEは未だに既読になっていなかった。綾乃の心臓の鼓動が速くなった。高校一年生の男の子なのだから、友だちと夜遊びぐらいするだろう。バイト先の先輩に可愛がられている、と言っていた。年上の友人と騒いでいる間に、時間が経つのを忘れているのではないか。私も学生の頃に、午前様になって父の大目玉をくらったことがあったっけ。
案外、もう家に帰っているのかもしれない。テーブルの上に置いてあるハンバーグを食べ、テレビを見ながら眠ってしまっている可能性もある。いや、何か事件に巻き込まれているのではないか。虐められて川に沈められた少年の事件や、無茶な運転による交通事故のニュースが頭を駆け巡った。楽観的な想像と、悲観的な妄想が交互に綾乃の頭の中に浮かんできた。
とにかく急いで家へ帰ろう。一一時四五分の閉店の合図と同時に店を出よう。〇時二分の山手線に乗れば、〇時三〇分には、自宅のソファでぐっすりと眠り込んでいる翔太に会えるに違いない。地味なスーツ姿で出勤している綾乃は、着替える必要もなかった。ハイヒールからローヒールに履き替え、バッグを手にするだけである。ところが、そこへスタッフが綾乃を呼びにきた。
「横田さんが、お店に戻っていらっしゃいました」
綾乃は、気を失いかけた。閉店に近いこの時間に戻ってくるのだから、横田は、綾乃をアフターに誘い出したいのだろう。だが今は、一刻も早く自宅に帰りたい。心も頭も翔太のことでいっぱいだった。横田が期待している銀座のクラブらしいもてなしや、綾乃らしい小洒落た対応は、今はとても出来そうにない。
とはいえ、仕事は仕事である。綾乃はせいいっぱいの笑顔を作って、横田の横に座った。
「いらっしゃいませ、ではなくて、お帰りなさい、ですね。私もごいっしょにいただいてよろしいですか」
「遅い時間に悪いね。飲み直したくてね」
「何を飲まれますか? ウイスキーにいたしますか?」
「濃い水割りを作ってもらおうかな。ところで、日本舞踊はいつ習っていたのですか?」
「母が習っていたものですから、学生の頃に」
こんなときに限って、と綾乃は唇を噛んだ。翔太と連絡が取れていたなら、このシチュエーションは心が躍るものであっただろう。綾乃にとって横田は、興味の対象が似ていて話をしていて楽しい相手であった。唯一の太客(ふときゃく)でもある横田には、常日頃から深く感謝しているし、頼りにもしている。お互いに楽しい時間を過ごし、商売としても自分を売り込む絶好の機会であるというのに、今の綾乃は、心ここに在らず、という状態だった。横田に子供がいることは話していなかった。アフターに行かれないことを、早く家に帰らなくてはならないことを、どう伝えたらいいのか。綾乃は悩んだ。
「私も、日本文化の素養を身につけたいと思うことがあります、小唄やお茶を学んでみたいが、時間がなさそうだ」
濃い水割りを飲みながら、横田が言った。
「横田さんの子唄を聴かせていただきたいです。セクシーで艶のあるお声ですものね」
と模範解答をしてから、やおら綾乃は一気に言い切った。
「ごめんなさい。今日は、アフターにお付き合いさせていただけないのです。私、明日の朝が早くて。あの、すぐに帰らなくてはならなくて……、すみません」
あまりに唐突な綾乃の言葉に、横田は困惑した表情を浮かべた。もっと別な、もっと柔らかな言い方ができそうものなのに、と綾乃は後悔し、心の底から自分が情けなくなった。泣きだしたい気持ちでいっぱいである。温厚な横田もさすがに不快そうな様子で、
「ああ、そうでしたか。ええと、それではもう少し飲んでから帰りますよ。綾乃さんは、早くお帰りなさい」
と、憮然とした面持ちで言った。
「すみません。ありがとうございます。後でご連絡いたします」
綾乃は、横田を置いてル・ジャルダンを飛び出した。靴を履き替える時間も惜しく、ハイヒールのまま非常階段を駆け下りた。
「綾乃さん、どこへ行くのですか? バッグを持っているけど、まさか横田さんを置いたまま帰るつもりじゃありませんよね! ちょっと! おーい! どうするんですかー!」
非常階段の上から、店長が慌てた様子で綾乃を呼んだ。
「店長、何とかしておいてください。よろしくお願いします。後で連絡しますから」
綾乃は肩越しにそう叫ぶと、並木通りを走り抜けて新橋駅に向かった。何とか〇時二分の電車に間に合った。山手線に乗り込むと、
《月の庭で飲んでいます。》
と、横田からLINEが入った。
《よろしくお願いいたします。》
と、短く返信した。

綾乃は、息を切らせながら2DKの小さなマンションに駆け戻った。部屋に電気はついていなかった。小さな玄関には、いつもなら脱ぎ捨てられているはずのスニーカーが見当たらず、部屋には人の気配がなかった。
綾乃は、スマホを取り出し、もどかしげに指を動かした。《翔太、どこにいるの!》《お母さん、凄く心配してるの!》《連絡ちょうだい。》と連打した。
それからLINE電話をかけると、電話口から声が聞こえた。やっと電話に出てくれた、良かった、無事だったのだ。綾乃は深く安堵した。
「翔太! どこにいるの? 大丈夫?」
綾乃が大きな声を出すと、
「綾乃さん、横田です」
と、さっきまで自分のお客だった男の声が聞こえた。綾乃の頭も身体も、一瞬にして凍り付いた。いったい何がどうなっているのだろう。綾乃は、状況がよく理解できなかった。
「横田です。綾乃さんは、LINEを打つ相手を間違えていますよ。ただならない様子だったので電話に出させてもらいました。息子さんと連絡がつかないのですか?」
「あっ、ええと、……はい。友達と遊ぶと聞いているのですが、もう家に帰ってきているだろうと思ったら、いなくて」
後先を考えるゆとりもなく、綾乃は本音で答えた。その声は、不安に震えていた。
「それは、ご心配ですね。息子さんは、おいくつなのですか?」
横田が聞いた。
「あの、高校一年生です」
「そうですか。綾乃さんのご子息ですから、しっかりしているのだろうと思います。誰と遊びに行っているとか、行きそうな場所の心当たりはありませんか」
「コンビニのバイト先のお友達と遊びに行く、と言っていました」
「綾乃さんが連絡を取れるお友達がいるなら、連絡を入れてみる価値はありそうですね。バイト先に行って様子を聞くのもいいかもしれませんよ」
「私、とても不安で、とても……」
綾乃が言葉を途切らせると横田は、
「わかります。とはいえ、東京は、世界一安全な街です。事件や事故の確率は低いですよ」
と、励ますように力強い声で言い、
「翔太君から連絡があったら、私にも知らせてもらえませんか」
と付け加えた。

さくらは、更衣室のソファの上でだらしなく眠っている若い男の姿を見下ろした。そろそろ起こそうかなあ、起こさなくちゃなあ。時間を確かめると、一二時を過ぎていた。綾乃は男の肩を揺すった。
「お客さん、閉店ですよぉ。起きてください」
いっこうに起きる様子のない相手に冷たいおしぼりを掛けると、若い男はびっくりして飛び起き、
「わっ、あれ? ここ、どこ? ええと、どうしたんだっけ?」
と、きょろきょろとあたりを見回した。
「カウンターで寝ちゃったから、ここに運んできたの。気分はどう? 気持ち悪いとか、頭が痛いとか、あるかな」
眠り込んでしまった若い男を乱暴に叩き起こそうとする店長に、さくらは「この子は知り合いなので」と言い張って更衣室へ運んできたのだった。さくらをリクエストしてコカレロを奢ってくれたこの若い男は、話をするほどに純真で素直な性格が伝わってきた。お酒に酔ったまま店の外に放り出すのはちょっと心配だし、可哀想になったのだ。
「お水、飲みなよ」
ペットボトルを差し出した。
「どう歩けそう?」
「ちょっと気持ち悪いけど、大丈夫そうだよ」
若い男は照れた様子で頭を掻きむしりながら言った。
「あっと、やべえ。スマホ」
若い男がスマホを取り出して画面を覗くと、焦ったような声をあげた。
「わっ、文字だけ打ち込んで送信しないままになっちゃっている、やばい」
「彼女さんが心配してるんでしょう?」
「ううん、おふくろがうるさいんだよ」
そう答えた若い男の表情は、少年のような幼さをたたえていた。
「ねえ、私とLINEで繋ってよ」
さくらもスマホを出した。
若い男のLINE上の名前は、「しょうた」と平仮名で表示されていた。プロフィール画像はパンダの着ぐるみだった。

翔太からLINEが届いたのは、一時少し前であった。
《これから帰る、ごめん》
《五反田駅から電車に乗ったよ》
全身から力が抜けていくのがわかった。押し寄せてくる安堵感に、綾乃は思わず床に座り込んでしまった。
無事でよかった。LINEの文面は、いつもどおりの母親想いの優しい翔太であった。しかし、なぜ五反田なのだろうか。バイトの先輩の家にでも遊びに行っていたのだろうか。
《お蔭様で翔太と連絡が取れました。自宅に向かっているそうです。》
すぐに、横田にLINEを入れた。もう二度と送信先を間違えたりしないよう、綾乃は慎重にスマホを操作した。
《よかったですね。息子さんを温かく迎えてあげてください。あまり怒ったりしないように。釈迦に説法でしょうが。月の庭のお嬢さん方に相手をしてもらって、楽しく飲んでいます。おやすみなさい》
と、返信があった。


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